街で出会い、私が声をかけるのは、自分の表現方法を持っている外見が派手で個性的な若者が多い。
ギャング、チーマー、ギャルサー、暴走族、マンバなど。
でも、いつの頃からか、私は気付いてしまった。
見せたくても、自分を見せることができなくて、苦しんでいる子どもたちがいることを。

「家でも学校でも友達の前でもいい子の顔して、仮面を被ってるんだよね。
表の顔、裏の顔って使い分けていて、社会に適応しちゃう。
気がついたら、自分っていうものがどこにもなくなっちゃった。
街の中に、はみ出してる子だけじゃないよ。
みんなと一緒の中にいなきゃと思って、輪の中で、苦しんでる子だっているよ」

私の元には、こんな子どもたちからの声が多く届くようになった。

「誰かに会いたい。 姿が見えない。
寂しいし、悲しいし、死にたい。理解されない。 自分がわからない」

「『助けて』って叫びたいのに叫べない」

「誰でもいいから、必要として」

「カラダだけでも必要としてくれるなら、それでもいいかな。とにかく空っぽの自分を満たしたい」

「自分がないっていうか、自分がいないんだ。それって死に等しいよね」

「『生きててすいません』この世の中に存在しない方がよかったのかなって」

「友達、親、先生、周りから見られて、自分ができてる。
こういう子じゃなきゃいけないっていうのが、いつも自分の中にある」

色と音、声までも失うくらい、心が空っぽで自分をなくした子どもたち。
きっと、自分という存在を否定して生きているから、存在が透明になってしまうのだろう。
それは家庭から、社会から否定され、理解されずに自分が存在しているのかさえ危うく感じているということでもある。

「ただ…必要とされたい。認めてもらいたい。愛されたい」と、
飢え渇いた心の叫びが…切実に居場所を求めている声が聞こえる。

「ねぇ、私を見つけて…」私のブログに書き込まれた文字。
わかっていることは「アスカ」という女の子が渋谷の街を歩いている、ということだけ。
私はあてもなく探したが、結局、「アスカ」を見つけることはできなかった。
いつだったか、匿名でブログ上に私を「偽善者」と書いた人がいたとき、「アスカ」から書き込みがあった。

「前に。。だいぶ前に じゅんサンと約束して守れなかったコトがある。。。
でも。。アタシはみていた。。公園通りを早足で歩くじゅんサンを。。。 歩道橋の上に佇んでいるじゅんサンを。。。
あのときはホントにごめんなさい。。。 一瞬でもアタシを探してくれた人がいた。。。 それが嬉しかった。。。
自分がどこににいてどこに向かってるのか。。。 向き合ってくれる人がいてうれしかった。。。
伝えることをやめないで。。。」

"見ていてくれた人がいた…ありのままの自分を"。

そのことが私はとても嬉しかった。

キミを探したいよ。

でもね、もしかしたらキミを見つけることができないかも知れない。
そんな時は、ここへ来て、隣に座って、声を聞かせてよ。
ひとりじゃないよ。
一緒に考えてみようよ。
届いているよ。
つながってるよ。
「キミ」とつながる、bond。